宗教に対する愚考
前回、間違えて2記事同時公開。
(若いぞりんたん は → こちら)
一方の記事を書いたことを
ものの見事にすっかり忘れていたのだ。
しかも次の投稿予定を忘れるという、追加の失敗。
忘却力に一層磨きのかかる今日この頃。
※ ぐ~、市松カレンダーが~~
人間、年を取ってくるとすがるものの1つも欲しくなるものである。
その代表格は宗教であろうか。
「一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念」
from Wiki
うむ、広過ぎ。
超自然的な何かがあれば、宗教としてはOKなのか。
みう 「どうせ ろくなはなしじゃないですぅ」
「さきにおわびの きめがおですぅ」
というわけで今回は、
いい加減いい年をしたおじさんが、
あまりある時間を無駄に使って、
宗教とは何ぞや、などと考えてみた。
当然、神学や宗教学なんて欠片も齧ったことはない
理系おじさんの戯言である。
それなのに
「宗教の定義は宗教学者の数ほどもある」
と言われるほどの難題に挑戦するのである。
論争をする気もないので、ご了承を。
※ ちなみに、どこぞの宗教団体に入信したとかは、ない
りん 「りんは おわびのかわいい だみゃん」
とは言ったものの、
宗教の内容というのは、正直掴み処がないほど曖昧。
そこで、まずは大鉈を振るって、
宗教の内容を下記のように二分してみた。
・あるべき自分の姿に関する事
・それ以外の事
※ 便利だな~、それ以外。
これを、芝居になぞらえると、
・あるべき自分の姿:自分の役と自分の芝居
・それ以外:舞台、演目、演出、共演者とその芝居、等々
お~、だいぶイメージが湧くような状況になった。
こういう大鉈的な同一視も立派な考察方法である。
ただ、芝居だと矮小化し過ぎな気もするので、
もうすこし宗教っぽくならないかと
無い知恵ふり絞った結果が、これ。
・あるべき自分の姿:世界の中での自分の行動に関する事
・それ以外:世界に関する事
なんだ、これ?
まずは、世界の方から考えてみよう。
ここでの「世界」とは、「自分」に関する事物全ての集合である。
「大地」「地球」「太陽」「人間」「猫」
「社会」「法」「幸福」「悪意」「光」
「神様」「仏様」「天国」 ・・・
宗教は、こういった世界の構成要素とその関係を定義し、
その成り立ちと現状、そして時には未来、
つまり、「世界観」を人に与えている。
「神様が宇宙の全てを創造した」 も
「菩薩様がうん十億年後に再臨する」 も
「大地は平らで亀の上に乗っている」 も
「地球は太陽の周りを回っている」 も
「悪いことをすると天罰が下る」 も
「嘘をつくと閻魔大王に舌を抜かれる」 も
世界観、そして世界の理なのである。
こうして「自分」が存在する世界が与えられる。
宗教のもう1つの部分
「世界の中での自分の行動」の基準として、
「価値観」も記述される。
大抵の行動は、神様、あるいはその意を汲む何かの
意向に沿えば善し、沿わなければ悪し、と括られる。
十戒とかが有名か?
善しを選び実践すれば天国やら極楽やらに、
悪しを選び実践すれば地獄とやらに、
死後の行き先が決まる、というのは定番である。
もっと現世的に、仏罰とか奇跡とかが起こるのもかな。
これらは宗教の与える「世界」に含まれる。
世界がそうなっているので、
避けようも変えようもない。
よって、宗教は善い行動を採るように強く勧める。
行動を縛るのである。
※ なので、人を支配する道具に使われたりもする。
そして、「世界の中での自分の行動」は
現在の利益を最大化するよう選択されるようになる。
悪しき行動の選択がネガティブ、
どころか具体的に不利益を被る世界観の中では、
善い行動を実践することが、
利益の最大化の具体的な手法となる。
これが「信仰すること」であろう。
現在の利益とかいうと俗っぽいが、
利益が俗っぽいと大抵悪しとされるのが残念。
ま、俗っぽい利益も含めて、
利益とは自己満足が得られる、というところか。
神様に嫌われなければ天国に行ける(地獄に行かない)と
現世で安心するのも、
利益の最大化によるところかな。
※ 自分の行動による他者の利益増加の大きさは無関係というのがミソ。
他者の高評価(好評価)がなければ生きていけない人もいれば
まったく評価されないどころか不評をかっても大丈夫な人もいる
ものさしは人それぞれ。
他者の高評価(好評価)がなければ生きていけない人もいれば
まったく評価されないどころか不評をかっても大丈夫な人もいる
ものさしは人それぞれ。
長々駄文を重ねたが、つまるところ宗教は
・世界観
・その世界観での自己利益の最大化
という二本柱でなりたっているのだろう、
というのが今回の愚考の一応の結論。
ただ、これだけなら宗教に限らない、
ごく普通の一思考様式・行動決定様式であろう。
ここで 「世界観」 を
冒頭の 「超自然的な何かを頂点とした世界観」
に書き換えると、一気に宗教っぽさが増す。
やっぱり、「超自然的な何か」は宗教には必須なようである。
逆に言えば、「超自然的な何か」がないと
宗教は単なる行動決定様式に成り下がる。
「超自然的な何か」を受け入れる下地があるかが、
宗教が受け入れられるかに大きな影響を与える、かな。
※ よって、冒頭の「すがりたいもの」は、正しくこの「超自然的な何か」となる。
宗教の「世界観」は「価値観」を規定して行動を縛る。
この「価値観」が生活の土台になってしまうのである。
なので、「価値観」を否定する何か、
例えば異教徒などは、徹底的に排除される。
「世界観」が否定されるとは、
今までの、そしてこれからの人生と、
それらを肯定してくれる「超自然的な何か」とのつながりも
全て否定されるわけで。
「お前の人生には一片の価値もない、全て間違いだ」と、
今後の人生のいついかなる時でも責められ続けるのである。
違いを認めよう、なんてフレーズもあるが、
譲れる部分と譲れない部分というのはあるものである。
また例えばになるが、
私たちは人間を食べない。
私たちの価値観ではとてもじゃないが譲れる部分ではない。
だが、死者の魂を取り込み、亡き人の意思や能力を継ぐのだ、
とかなんとか理由を付けて、
人間を食べることを善しとする宗教文化があるとする。
おそらく、違いを認めよう、
なんていうレベルではない拒否を受けるだろう。
私たちは私たちの価値観を押し付け、
食人をやめさせようとするだろう。
※ そうやっていわゆる宗教戦争が起こるんだよなぁ。
しかし、向こうの規模、兵力、経済力、資源保有量などが
私たちと拮抗していたら?
拮抗どころか彼我の実力差があったとしたら?
ま、違いは認めつつ、絶対に係わらない、
ってのが正解なんだろうな。
宗教は人の行動を縛るので、
大衆の支配の道具になりやすい。
支配層に不利益はことを悪しとする、とか
支配層の利益になることを善しとする、とか
支配者を「神」あるいはその息子、代弁者などとする、とか。
大衆に受け入れられるかは、また別の話ではあるが。
国教、あるいはそれに準じた地位を宗教関係者・団体に与え
二人三脚でことを進めるのが常道かな。
足をつなぐ紐はめっちゃ細くて切れやすいけど。
そう言えば、お隣の磁器の国やその周辺は、
こういう手法をほとんど使わなかったな。
人(王)に支配権があることを無理に正当化しようとするから、
それなら俺も俺もってなってまとまらんのだよな。
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